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吉田松陰の黒歴史

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こんにちは。バケモノブログのヨシダです。
私は「ヨシダ」姓ということもあり、吉田松陰先生の大ファンです。吉田松陰は多少過激なところがあったため、数え年30歳の若さで亡くなっていますが、吉田松陰の薫陶を受けた人々が維新を成し遂げたことから、松陰の魂は今も多くの人を魅了しています。
そんな偉大な松陰ですが、その人生を辿ってみると、かなり人間味にあふれ、時に激しく、時におっちょこちょいな一面が見えてきます。
今回は、吉田松陰の黒歴史ともいえる「取り返しがつかなくなってしまったエピソード」を3つ紹介します。

吉田松陰って誰?

吉田松陰の出身は、長州藩(山口県萩市)という日本海に面した小さな城下町です。幕末の1830年に、あまり裕福ではない武士の次男として生まれました。兵学者の家柄である吉田家へ養子に出され、11歳頃には藩主毛利慶親(もうりよしちか)の前で兵学の講義をするほど才知に恵まれていました。
兵学を学ぶうちに、アジア諸国が欧米列強の植民地と化している現状を知り、日本の兵学が海外の兵学に後れを取っていることを痛感します。見聞を広げるため、西洋兵学を学ぶとともに、日本中を旅します。
しかし旅の間にいくつかの問題行動を起こし、27歳の頃、萩で幽囚の身となります。
幽閉されている間、実家の幽囚室で講義を始めます。講義を聞きに来る者が増えてきたため実家の敷地内に講義室を作り、萩の若者を集め兵学や欧米史などを教えました。松下村塾の塾生には、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、明治の礎を築いた人々が名を連ねます。

1.うっかり通行手形の申請を忘れて、無職になる

吉田松陰は22歳の時、参勤交代のお供として江戸遊学の機会を得ます。江戸で勉強仲間と親交を深め、親友の宮部鼎三(みやべていぞう)とともに東北旅行を計画します。松陰は才知あふれる優秀な若者であったため、東北旅行の許可はすんなり下りました。
そこへ松陰の友人の江幡(えばた)が、松陰と宮部の東北旅行に同行させてほしいと願い出ます。なんと江幡は兄の仇を討つため、南部藩の田鎖左膳(たぐさりさぜん)が江戸から盛岡に向かう途中で襲う計画でいました。
江幡の話を聞いた松陰と宮部は、「仇討と言えば赤穂浪士。出発日は赤穂浪士にあやかって12月15日にしよう」と決めました。(この時まだ7月です。)
その後出発まで松陰は悠々と構えていましたが、出発直前になって「あ、関所の通行手形もらっとかないと」と気付きます。松陰は、旅行の許可が簡単に降りたので、関所の手形も簡単にもらえるものだと思っていました。しかし実際は藩主の許可が必要で、藩主は萩に帰っていたため、手形が届くまで1か月近くを要します。
江幡の計画など知る由もない藩の役人は、「松陰さん急がないでしょ?手形が届くまでゆっくり待っていてください」と言いますが、松陰は冷や汗だくだくです。「やばい、12月15日に間に合わない!」
結局松陰は、藩士としての自分の立場よりも友情を優先し、通行手形がないまま出発します。そして、藩からは亡命の罪として、士籍剥奪、家禄没収という罰を与えられてしまいました。
※ちなみに江幡は仇討を実行できず、田鎖は病死してしまいます。

2.友人にそそのかされ、密航しようとする

松陰は江戸遊学中に、佐久間象山(さくましょうざん)と知り合います。佐久間象山は西洋について深く研究していたため、松陰が江戸を離れた後も親交を深めていきます。
松陰は東北旅行から戻ったあと、士籍剥奪・家禄没収となり、浪人の身に成り下がりました。浪人となった松陰は日本全国を旅しながら、大量の書物を読み、西洋の武器や植民地化のやり口を学び、実際に異国船を目の当たりにした結果「西洋に渡ってみたい」と思うようになります。
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」の兵法を実行しようとしたのです。
この頃、漂流漁民としてアメリカ生活を経験したジョン万次郎が幕府で翻訳・軍艦操練所教授として活躍していました。
佐久間象山は松陰にこう言います。
「九州の五島列島あたりで漁師がよく上海方面に流されるらしいよ。漂流すれば、異国船が助けてくれるかもしれないし、もし上海まで行ければアメリカ行きの船に乗るチャンスが開けるよ。」
もちろん漂流は命がけ。少し考えれば「リスク多すぎ!」とわかります。しかし、異国船に乗りたいと思った松陰は、長崎に旅立ってしまいました。

3.聞かれてないのに、幕府要人暗殺計画を暴露

幕末の混乱の中、大老井伊直弼(いいなおすけ)が幕府中心の政治を推し進めていました。そのやり方は過激なもので、幕府にとって都合の悪い維新志士を殲滅しようとします。井伊直弼は老中間部詮勝(まなべあきかつ)に「京都中に悪謀の者がはびこっているので、粛清が完了するまで帰ってくるな」と京都行きを命じます。
気の弱い間部は仕方なく京都で志士狩りをします。松陰の友人の儒学者、学者たちが根こそぎ逮捕されていきました。
このことに怒った松陰は、間部詮勝暗殺計画を企てます。ただし、周囲の反対が強く、松陰自身もこの計画はちょっと無謀だとわかっていたので、実行されませんでした。

松陰の友人が京都で捕まったことから、松陰にも捜査の手が近づいてきました。松陰は、江戸に呼び出されました。この時点で、松陰は「暗殺計画がばれたか」と思い、ちょっと覚悟していました。
江戸で、幕府の役人から、「友人とはどんな仲ですか?どんな話をしていましたか?(まさか討幕とか企んでいませんよね?)」と尋問を受けました。
そこで松陰は、「友人はただの友達です。普通の話をします。」と答えます。
ここで終了しておけば松陰は無罪放免で萩に帰ることができたはずです。でも松陰は自首してしまいます。
「あの、ご存じの事でしょうが、先日、間部さんの暗殺を企てました。でも計画しただけで未遂です。」
幕府の役人はこの暗殺計画を知りませんでした。
そして、残念ながらこの件で松陰は処刑されてしまいます。

まとめ

吉田松陰は西洋諸国のことを本当によく研究していて、日本の行く末を思いたびたび長州藩や幕府に進言していました。
そして、松下村塾で萩の若者たちにその考えを説き、今日では幕末最高の教師と評価されています。
そんな立派な人が、自らのうっかりミスで人生のターニングポイントを迎えていたことに驚きです。

萩市の松陰神社には、松下村塾が現存しています。

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松陰についてさらに詳しく

小説家 古川薫さんは吉田松陰に関する著書を数多く記しており、読みやすく、松陰への愛が多分に感じられるのでおすすめです。

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